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公開作品:小説​「緩衝バッファ」

「そろそろ車の免許も返納しようかと思う。もう乗っていてもな……。反射神経もだいぶ衰えてきたし」ボソリと父は言う。父も母ももう随分と早く寝る習慣になっているが、それはそうだ、もう八十も近い年齢だ。そんな両親の住む実家に着いたその日、いつの間にか僕は寝ていた。いや、寝ていたのかも曖昧だ。実家に向かった記憶は微かだ。もしかしたら向かってもいなかったのか。だとするとどこかで僕は倒れてしまったのか。繋がらぬ記憶が、顔見知りの隣人の名前を思い出せないくらいにモヤモヤした気分にさせていた。

緩衝バッファ

 

弟が五十歳になったらしい。最近は気分が優れず、調子が良くないとのことだ。趣味のサッカーが出来なくなりそうだと嘆いている。膝の痛みで通院中なのだが「もうサッカーは出来ません。引退した方が良いでしょう」と医者に言われたって。そういう話を聞いて、僕がちょうど弟の歳の時にも体の調子が悪かった事を思い出した。

だけど、なぜこの年齢を覚えているかというと、父の事をとても心配になった時期だったから。五十とは、年齢的な岐路と言える歳だと自覚した覚えがあるからだ。なんにせよ、五十歳くらいになるといろいろと起こる。弟もそんな歳なのだな。

小さな時から僕との歳の差は変わらず三歳のまま。小学校六年生と三年生、二十三歳と二十歳、そして五十三歳と五十歳。いつまでも変わらぬと思っていたが弟ももう五十なのだ。あんまり無理をせずにと声を掛けてあげたい。そんな思いだ。

僕は、花粉症がその頃はひどくて、随分と長くくしゃみが止まらなかった。その時からはあまり夜遅くまで会社の仕事をしたり、家に持ち帰って頑張ったりはしなくなった。そろそろ歳だし、無理しないことだと決めたのを覚えている。

そして五十歳の僕は、ある出来事にも遭遇していたのだ。

 

父が二十七歳のときに僕は生まれた。僕が五十になったから父は七十七歳になっていると思う。

まだまだ父の存在は偉大だ。

そう感じていたのだが、最近ちょっと違って見えてきた。

力強さもなくなって、リタイヤしてからだいぶ経つせいか、人生の最期の事を考えているように見える。

「お父さんたちに万一のことがあったら」と母と一緒に僕に伝えられたことがある。

立派な漆の箱に万一の時の保険やら何やらの書類一式が入っている。そう言われたのだ。

ちょっと怖かったから中身を確認したりはしていない。

二階のどの辺りに置かれているかは知っている。

「そろそろ車の免許も返納しようかと思う。もう乗っていてもな……。反射神経もだいぶ衰えてきたし」ボソリと父は言う。

そんな父の様子が心配になって、たまには泊まりに行くと母に掛け合った。この提案には歓迎されたのを覚えている。

父も母ももう随分と早く寝る習慣になっている。

それはそうだ、もう八十も近い年齢だ。

実家に着いたその日、いつの間にか僕は寝ていた。いや、寝ていたのかも曖昧だ。実家に向かった記憶は微かだ。もしかしたら向かってもいなかったのか。だとするとどこかで僕は倒れてしまったのか。繋がらぬ記憶が、顔見知りの隣人の名前を思い出せないくらいにモヤモヤした気分にさせていた。

 

真っ暗な視界は何も見えていないのと同じ

目は見開いているつもりだけど、空間も無くなってしまったかのよう。

夢とは違う。浮遊感も無い。

体が抜け落ちて意識だけが彷徨っているみたいだ。

(ここは?)

はっきりと意識的に思考する。だから眠っているわけではないな。

そこは自信を持ってそう思う。だけどどうしたのだろう?

自分じゃないみたいな感覚。体の痛みも疲労も、逆に活力も無い。

自分だという認識はあるのに。

記憶はどうだ? いろんな事を覚えている。

昨夜はいつもの通り食事をして、歯磨きもした。自分のベッドに入り眠りについたはずさ。

何も変わらぬ日を過ごしていた。

(やはり、ここは夢の中?)

自分に問いかける。浅い夢なら寝返りを打つのを感じるかもしれない。

体はどこへ? それが分からないんだ。

夢ならば何の夢だろう? 物語の舞台は何処だ?

会社で窮地に追い込まれる悪夢の舞台か、それとも、街で子供を助けるヒーローの活躍する舞台か。

そういうものがどこにも無いぞ。

黒だ。何も見えず、深夜の暗闇ですら存在する疎らな灰色の雲だって感じ取れない。

視界の先は「無」の空間だけだ。

もう一度、喋れぬ口に頼ること無く念じてみた。

(ここはどこ?)

「緩衝バッファだよ」

どこからか小さく声が聞こえた。

(えっ、なに?)

「ここは緩衝バッファだよ。俺はタナカアキラ。五十歳」

(えっ、なになにっ? どういう意味)

誰かが喋り掛けた。夢とは違うはっきりした言葉が聞こえている。

起き抜けに枕元から聞こえる声か? 

いや違う。目覚めてはいない。眠ってもいない。

どうやら、自分はベッドに寝ていたわけでは無い。部屋にさえいない。体ごとにどこかへ失っている。

今あるのは意識だけだ。

(タナカくん?)

「何が起きているか分からないだろう? それはそうだよ。俺もそうだった。しばらくは飲み込めなかった」

(どういうこと?)

「ここは『緩衝バッファ』とそう呼ぶらしいよ。俺も目に見えない誰かに教えてもらった」

(かんしょう、ばっふぁ?)

「そう。君も記憶の中身だけを保管されているんだよ。この領域に」

(領域?)

「ところで、君のお名前は?」

(上田だけど。上田未来……)

「未来? いい名前じゃないか。きっと君は大切な存在だったんだろうね。きっと早く戻れるだろうな」

(戻れる?)

「ここは君の契約期間を終えた体に入っていた記憶置場なんだよ。君も年齢は五十歳だろ?」

(そうだけど)

「五十年が契約期間らしくってね。人工ボディーのね。君は君の家族によって契約されたアンドロイド。その記憶さ。電子回路によって蓄積した五十年間の記憶。そういうことだよ。驚きだろう?」

(えっ? よく分からない……)

「俺はもう長くここに居る。ほかにも長い人はけっこう居るよ。もう期限が来て抹消された人も居る。でも君は希望が持てるよ。名前が良さそうだ。俺はピンと来た。だから希望を持つことだね」

(どういう事?)

「そのうち理解が付いてくるよ。早ければすぐにでも戻れる。契約更新してまた新しいボディーに記憶を接合してくれるかもしれないから」

(タナカくんは?)

「俺は、両親はもう死んでしまったよ。親戚は居るけど、どうなっているんだか……。しばらく何も音沙汰無しさ。直にさよならかもな。だけど俺の人生は充実していた。思い残すことはない。ただ、また太陽の光の下で地面を踏み歩いてみたいとは思う。人間だと思っていた自分の存在は愛おしいな」

(そう……。ちょっとよく分からない)

「だろうね」

(疲れた気がする……)

「それは、そんなことはないと思うよ。それにもじきに気付く。疲れはこの空間にはない。そう分かってくるよ」

それからどう過ごしていたのだろうか。

タナカ君との会話はそれくらいだったように思う。

たしかに疲れた体も眠くなった頭もどこにも見つからず、この夢の中に似た空間も空間があることすら感じない。ひたすらに生きていた時の記憶を巡って思い出していた。

 

目覚まし時計の音が鳴ったような気がした。

だけど起きたのはそれがきっかけじゃない。

「おう、未来。日曜はこんなに遅いのか」

「えっ? お父さん?」

父が家に来ていた。ここは自分の家? 父の威勢のいい声は前と変わっていない。元気が無く心配していた僕の気持ちは何処吹く風だ。

「どうしたの今日は?」寝ぼけながら俺は反応する。

勝手に鍵開けて入ってきたな。親だからって「一言、あらかじめ伝えておけよ」とそう思う。

「最近体調は?」そんなことを僕は言う。

「変わりないよ、歳は歳だけどな」とそんな風に父は返す。

それで、どうして今日はここに来たのか問うと、「近くに寄ったから顔を見に来た」とか言っている。

父の顔がちょっと晴れ晴れしく見えたのを覚えている。

僕が五十に起きた不可解な出来事だった。

 

(弟の調子はどうかな?)

そんな風に思って久しぶりに父に電話でもしたくなった。

「あいつ、調子どうかな、足の具合。知ってる?」

「良くなってきたらしいよ。お前も会いに行ってみなよ、たまには」

「えっ、そうなの? けっこう重症かと思ってたけど。まあ、でもそりゃあ良かったね。じゃあ、今度会いに行ってみるよ。ところで、お父さんお母さんは? 変わりない?」

「もう歳だけどな。まあ、なんとか生きてるよ」

電話越しにはとても元気に聞こえた。

 

出勤して会社で出来事があった。

新しい中途社員がプロジェクトに加わるらしい。

臨時の昼礼が開かれ、挨拶をしたその彼は、ちょうど俺と同い年らしい。

五十三だから重席に付く。今どき珍しい。ヘッドハンティングかもしれない。

「今日から皆さんと一緒に仕事をさせてもらいます。ぜひ、プロジェクトを成功させたい。そういう意気込みでは皆さんにも負けない。そういう覚悟でここに来ています」

(おいおい、凄いな初日から……)

随分と活力満点な人材だこと。上手くやれればいいのだけれどな。

課長が挨拶を促した。

「それじゃあグループリーダーの上田から、簡単に自己紹介を!」

「はい。私は上田と申します。名前は未来です。上田未来。私もこのプロジェクトは成功させる気満々です。どうかよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。そうだ、名前を言い忘れていました。私としたことが。田中です。タナカアキラと申します。歳は五十三です。まだまだ現役バリバリです」

笑いが起きた。何とか上手くやれそうかな。そう思った。

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