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公開作品:小説​「YOTSUBA」

反人工知能研究者とレッテルを貼られた秋田は、法的措置でHM(ハッピーメモリー)β型を装着させられる。反逆に出ようとした矢先、違法に自分の全視界データを収奪されていると知ると、新日電ワトソン社に乗り込んだ。レジスタンス協力者の五十嵐らと綿密に企てたデータサーバー破壊工作が成功するかに見えたが、秋田には追跡者の影が見え隠れする。背後から捕まり、床に叩き付けられた秋田は、目前の暴漢を……。

YOTSUBA

 

 1

 「足の悪いおばあちゃんに見せてあげるの」

「それは素敵なアイディアね。それじゃあ、この旅行には『ハッピーメモリー』を使いましょう」

真っ白に整った歯並びの女優は、笑顔とリップグロスを輝かせながらその小学生ほどの子役の女の子に向いた。側には虫採り網と釣竿をトランクに載せる少し年上のお兄ちゃんがいる。そして運転席から自動運転のエディーと何かの会話をし終わった父親が妻役の強烈リップグロスに歩み寄る。

「さあ、出発だ!」

新緑の木々は風にそよぐ草原のイメージへと続き、一本の四つ葉のクローバーがクローズアップされる。

夢見心地のBGMに使われた流行りの曲【あなたに愛を】に乗って四つ葉が回ると、ナレーションと『HM』の文字が日本中の宣伝媒体で伝達されるのだ。

このハッピーメモリー(通称HM)を開発したのは新日電ワトソン株式会社という古くからの巨大資本だったが、背後では法務省が一枚噛んでいる。五年ほど前、多くのエリートエンジニアを引き抜いては大きなプロジェクトを進めていると業界に知れ渡る、いわゆる[新日電革命]という出来事があった。そこで集められた頭脳達が生み出した装置こそがHMだ。着脱容易なHMが生み出す映像ストレージ技術は単なるアフターマーケット商品を狙っていたわけではない。家電、通信、医療、化学、教育、娯楽、公共、そして保安と、多方面での技術革新に繋がった。

人が見た映像そのものを全時間、全視界を映像データとしてサーバーへ転送して保管することが出来る。その厚さが極薄の製品の中にはデータ転送のための通信装置も備わっている。ユーザーはいつでも自分が見てきた映像と音声を振り返って見る事が出来るのだ。ビデオカメラに頼る必要の無い、神でしか作れなかった記録装置と言っても過言ではないだろう。今はそれがある。思い出の記憶は目の前で再現実化して蘇る。

そんな神の視力の使い方は至って簡単で安全だった。なぜならそれは、コンタクトレンズを装着するだけだからだ。

 

  2

 新日電ワトソンの川崎新社屋に勤める社員の半数以上はこのプロジェクトに参画していた。

システム開発部二課のグループは少人数だったが、特にプロジェクトの核心、法務省からの特命ブロックを担当していた。

二課の関わる業務には特別な環境が与えられ、社内セキュリティーも最高の【特A】ランクに該当する。会議室予約システムには一般登録の無い小部屋が二号棟四階西にあって、ここに会議室があることを知っている社員もごく僅かだった。

秋、西の太陽の神々しさが窓から去って随分経った頃、その仕様は秘密裏に決まった。

「課長、僕は怖いです」

「何? 私だって仕事を選べるなら辞めたいところだよ」

「ですよね。はい、では今から心を鬼にして今日のサマリーまとめます」主任技師はそう言って、ベータ詳細仕様の中から要点を会議メンバーに共有し始めた。

 

・アルファとベータの基本共通仕様はコンタクトレンズに映像取込み部とサーバーへの通信ブロックを持つ点

・アルファ仕様との差分その1は、コンタクトレンズ装着後に角膜組織同化により着脱不可となる事

・その2は、音声取込み部は外耳への埋め込みとする事。そしてこれも外耳道への組織同化により着脱不可

・その3は、生体細胞の組織活動により電力を供給する超微小電力型部品を採用する

・その4は、このベータ仕様はiPS組織体を使用し装着後人体への影響は無し、とする点

 

その後、いくつかの事項を述べた主任技師は、誰に向かってでもなくテーブル中央の空間に視線を置いたままで会議をラップアップした。爪を噛み、震えを抑制しているメンバーもいた。疲れから見せた訳ではなかっただろう。畏縮の顔で俯いて聞く者も居た。

「これで、生体の機能を失う以外には使用を停止することは不可能だ」

 

  3

 「おい聞いたか? また自殺者が出たらしいぞ」

秋田は協力者の一人、五十嵐に言った。

 

HMのブームが始まる前にすでにベータ型を用いたこの法律、すなわち個人情報保護法の適用除外の特例法は成立していた。保護観察や執行猶予を言い渡された者には装着を義務づけられる。そして、法務省の危険人物特定システム(SSDP)で抽出された対象者には、十七パーセントの割合で強制的にこの措置が執行された。

処置は簡単だったが法的にはそれを強制させられる。装着後、データ収集期間は二ヶ月限定であり、その後送信能力を失って機能停止する。そう説明された。

眼球や外耳と言った生体の組織に同化されるために取り外しの処置は不要だ。しかし、噂が人々に擾乱を生んでいた。

『着けたら最後、いつまでデータを搾取されているかも分からない。取り外す事だって出来ないのだ。何かが作動しているに違いない。国や法によって己の体を乗っ取られる。この命令の対象になったら一生元の体には戻る事なんて出来ないぞ。俺は嫌だ。このイエロー通知が来たら、人としての尊厳を失う。そういう一線を越えるんだ』

こう恐れられた。

法務省のSSDP対象者に使われていた装置はHMとは違う。しかし開発元は同じ新日電ワトソンだ。装着タイプが異なっていて、HMがアルファ型と呼ばれるのに対し、ベータ型と呼ばれた。HMはアルファ型が生んだ一般向け商品だったのだが、時勢が措置を後押ししたのだろう。

【ハッピーメモリーは安全に着脱可能です】

いつしか宣伝の最後にこの文句が追加されていった。

ベータ型の法的執行については、「一度それを装着すると効力を停止出来ない」との噂が広まった為に、深刻な社会現象も引き起こした。数は多くはないのだが、動機不明と報じられる自殺者や未遂の重傷者が増えた。いずれもこの法的措置を受けた対象者達が自分の身体を憂い、命を絶つ決断をしてしまったからだ。

 

「おい秋田、お前出来るのか?」

「ああ、出来る。やるしかない」

五十嵐は秋田の決意に固唾を呑んだ。

「データ収集期間の二ヶ月はとっくに終えている。だから今の俺からデータ取りされていないことを願うね」

「もし撮られていたら?」

「そりゃあ、この計画を阻止されるんだろうな」苦笑いを見せた。

「でもいったい誰に? 何百、何千もの時間の映像データを誰がどうやって確認するんだ? 対象者の数だってごまんといるだろう? 凶悪事件の証拠ですら検察や警察では処理できないっていうのに、このデータなら無尽蔵な量になるってもんだろう?」

「プログラムさ!」秋田は答えた。

「人力で出来る事じゃない。だが怪しい映像や音声を検出することだったら機械に出来る。機械と言うにはもう失礼かもしれない。画像認識、音声認識、感情認識、機械学習、推定学習、推論推測、人間的思考だ。分かるか? 人工知能だよ。AIだ」

「なるほど」

秋田は簡単な映像処理システムが備わっているだけではないと、ずっと前から憂慮していた。

(きっと人間だって、もはや彼らの掌の上さ……)

 

  4

 秋田は半年ほど前にイエロー通知が来た。

その時にしばらく五十嵐の家に匿ってもらっていた。しかし結果的に処置から免れることは出来なかった。

五十嵐は大学の研究室仲間で、それがいわば法的措置のリスト、すなわちSSDP対象者入りの理由でもある。秋田は人工知能の進化には人類の存続を脅かす致命的な穴隙があると唱えていた。その研究テーマは人類を救うためだとする秋田の胸懐に反して、反人工知能研究のチームと称されてしまう。シンギュラリティーへの警戒を抱く同士は多く秋田の元に集まってはいたが、レッテルとしては社会的な危険因子と判断されたのだろう。

メンバーの中でも最も信頼の高い五十嵐にはイエロー通知は来なかったらしい。ほかのメンバーも幾人かいたがその噂は聞かない。

「また五十嵐のアパートに集合しよう。構わないだろう?」

五十嵐は阿吽の呼吸で肯いて同意した。

「電波なら瀧本も橋爪も呼ぼう。あの二人がいれば明らかになる。俺はもう発信していないと願いたいね」

五十嵐のアパートは、いかにも抵抗勢力のアジトのような所だった。

(俺なんかより五十嵐の方がよっぽど怪しい人物だな)秋田は瀧本の顔を覗くと、同じような表情をしているように見えた。

部屋に入ると瀧本が横長の何かの装置を、そして橋爪がバイクのヘルメットか宇宙服かよく分からぬ被り物を一つ持っていた。

「秋田、これを被ってくれ。何も危ない事は無い。これでお前の目や耳の辺りから何かの送信電波があれば分かる。さあ、早くやってしまおう」

結果はすぐに出た。瀧本と橋爪は急に耳打ちで会話をしだした。その後、俺の背後に回り背中に指で何かを描く。

「おっ、おい、何だよ!」

顔を動かそうとすると歯医者に来た小さな子供を制するかのように俺の頭を橋爪が押さえた。背中ではもう一度指が動かされ、何かの文字を俺に伝えている。

「おい秋田、ちょっと黙ってこれを読んでくれ。もう一度やるぞ、いいな」

ほんの少しの間を置いて背中に指がなぞられた。

『クロだ』

 

  5

 仲間に頼れる俺は幸せだと感じた。結局一人では何も出来ないが、彼らがいたおかげで俺は決行する決意を曲げてはいないからね。証明して訴訟を起こしても良かろう。だが、この戦いは勝てない。そう感じていた。だからレジスタンスに出るんだ。準備を進めて核心を破壊する。その自信はあった。陰謀を暴くという映画のような話は出来ない。現実はそんなファンタジーの世界ではないはずだ。だけど、これは技術革新を人への冒涜に使った悪しき行為だ。自分の見ている視界や音声を略取されていることはこの際どうでも良い。正義感が反逆心を暖めていた。五十嵐達がこれ程の情報を揃えてくれたから出来たことだったんだ。

「橋爪、映像データのパケットには固有のヘッダがついていたんだ。これだよ。これが秋田のユニークコードだ」

瀧本は橋爪と二人で映像の送信先を探してくれた。

「一週間前の事だ。新日電ワトソンの開発に携わっていた老人を……」

「老人?」

「ああ、もうリタイヤしている。だけど初期の開発グループのエンジニアだからな。関口って言う人だよ。その娘を利用した」

橋爪が振り返る。

 

「お父さん、体の具合はどう?」

「この前、運動会だったでしょ、息子の翔の。私、ハッピーメモリーで翔の運動会の様子を撮ってきたから見ない?」

「おお? HMを使ったのか? それは見たいなあ」

取り外したHMを収納した薄いカード状のケースをベッドの関口の手に載せた。関口は壁に指差し合図をすると、壁がスクリーンになり映像の再生が始まった。

「ねえ、お父さん。お父さんはHMには詳しいんでしょ? どうして私は何もしなくても私の撮った映像ライブラリがこうして自動で出てくるの?」

「それは普通、気にしなくてイイ」

「気になったから……。でもどうして? 知りたいの。お父さんなら知ってるでしょ?」

関口は答えた。

「それは映像を映し出す側に仕掛けがあるんだよ。PCでも壁型テレビでも、タブレットでも通信ペーパーでも何で映しても同じだ。スクリーン側が撮った人物コードを認識している。だから照合されてサーバーから自動的に取り出せる。そうなっている。分かる?」

「へえ、よく分かんない。ディスプレイ側が調べてくれてるって事? 自動的に?」

関口は孫の映像の方を見ながら深い笑顔で肯いてみせた。

「ねえお父さん。もう一つよく分からないんだけど、映像データってどこにとってあるの?」

「なんだお前、ディスク化してないのか?」

「しているよ。してるけど、全部じゃないもの。ほかのは、いつか無くなっちゃうのかな?」

「ハッピーメモリーの契約次第じゃないか? 普通はどんなに少なくても十年くらいは残されていると思うけど」

「いえ、そうじゃないわ。その……、そういう事じゃなくて、停電とかで消えちゃったりしないの? 消えないような場所に保管されているの? 安全かしら、それ。それで、どこにあるの?」

「保管場所か?」

「ああ、そうそう」

「大丈夫、安全な場所だよ」

「銀行とか?」

「ははは。大事なデータだからしっかりした場所だけど、銀行じゃあない。サーバー上だよ、新日電ワトソンという会社のね」

「あの法律でなんとか、っていうのもそこにあるの?」

「SSDP調査のことか? あれは知らないなあ。機密の情報だろうからね。でも最初は同じところを経由するはずだね。新日電ワトソンじゃないかな……」

 

「この映像で良いですか?」

「ええ、十分です。これは謝礼です。どうもありがとうございます」

関口貴子はHMを外して橋爪に渡した。

 

  6

 五十嵐は秋田に最後の確認をした。

「場所は特定できた。新日電ワトソンの東社屋の奥の建物だ。四号館と言うから間違うな。あそこは日中ならなんとか入れる。この無線IDタグで扉は通れるようになっている」

「これをどこで?」

「長期休暇の社員の情報をコピーした。二週間は帰ってこない。今回は手の甲に貼るだけだ。まっすぐに何食わぬ顔で目的地まで進めよ。これが地図だ。入手はしたがこれより詳細は分からない。サーバールームに入ったらこのコードを手順通り抹消だ。練習した通りだ」

五十嵐と出した考えは多分、合っているだろう。

あの五十嵐の部屋での事だ。

「秋田に着けられたベータタイプは、それをつけると、目の場合なら老眼も近眼も治る。耳の場合、難聴も治る。そういった効果もあった?」

「ああ、今思えばそうだ。着けてからは細かい字も見えるようになった」

「考えてみればそれはそうだ、鮮明な映像と鮮明な音声を取得できるように設計されているからな。元来の生体機能さえも向上させる。装着されてすでに形も無く、消えて埋まってしまったように見えるがね」

それから俺は瀧本らに『クロだ』と宣言された。

「さっきは指で合図をしてくれたが、気にする事はない。心配無用だよ。俺から発信されていることは確定したけど、きっと俺達の行動が重大な規制に引っかかるとは思えないね。だから喋るぞ」

「なぜ?」

「だって、随分前から俺達はこの為の行動をしている。喋ってもいる。でもどうだ? 捕まったか? ノーだろ。こういう俺達の会話も映像も抜き取られているわけだよね。一体誰が得をする? いや得になんかならない。ただおそらく人工知能が自動に映像解析と音声解析をして何か特別なものだけを抽出するような仕組みになってるはずだ」

「例えば?」

「例えば重大犯罪だろうね。それはおそらく引っかかる。そうなったらその後にどうなるかは知らないけどね」

「それじゃあこの程度の会話に対しては影響も無いってことかな? 国家が恐れる程の重大犯罪ってなんだ?」

「分からんね。だけど普通に犯罪だったら引っかかるんじゃないの?」

「スピード違反とか駐車違反とか? やったら不思議と警察が来て、現行犯で捕まるって? そんなことしてたら警察が何人いても足りないよ」

「目的はなんだろうね? 国を転覆させるような重大犯罪を監視するのか?」

「さあね」

俺はため息を一つついたが、確信していることが一つあった。それはサーバーには確実に存在していること。何の目的かを仕組まれているAIがあることを。

(破壊してやるさ)

声には出さなかった。

 

  7

 社屋に入った。

社員IDでパスした廊下は二つ目だ。セキュリティーランクは高そうだったが、ここまでは無事だ。会社なんて顔見知りでなくたってID番号がその存在の証になってる。会社の人間関係なんて空疎なものだな。

廊下を進む。視線をやや下に置きながら、自分は社員だと言い聞かせながら冷静な顔を装った。時折、人の気配があったが、不思議とすれ違うことがなかった。すんなりと通れている。セキュリティーカメラも不思議と見当たらない。

(本当にここだろうな?)

ここまでは作戦通り。いやこれは五十嵐や橋爪達が入念に調査してくれた尽力の賜物なのだろうが、進路を邪魔されずに社屋の中を移動できている。目標地点はもう時期だ。堅牢な金庫のような場所。それが想像していた目標地点だったが、そうではなかった。サーバールームは意外な場所にあった。これならあまりにも予想外だ。普通には気付くまい。何しろそこは健康相談室の奥の倉庫だからだ。まず相談室には産業医が居るかもしれない。人が居たら頭痛がするとでも言おう。扉を開けて一歩入り込んで覗く。しかし人は居ない。昼食の時間か? ラッキーだった。入れる! 最後の扉はその奥だ。このIDで通過出来るかは五分五分といったところだろう。俺は五十嵐を信じるだけだ。

「カシュッ」

空気が漏れるような音と共に扉は開いた。

サーバールームには空調があって、端末が数十あるように見える。そのそれぞれは図書館の書棚のように列になってサーバーが備わっていた。かなり奥行きがある。こんな所にこのスペースは想像が及ばなかった。社員は知っているのか?

一台の端末から五十嵐と組んだ計画の通りに事を進める。前もっての練習通りだ。十分ほどの作業で俺のコードも難無く発見出来た。

ここから、二つの大仕事を進めなければならない。一つは俺の映像データの抹消だ。そして二つ目はAIの組み込まれたプログラムを見つけ出し破壊すること。破壊までは出来なくてもデタラメに改竄をしてやる。そこまでの自信はあった。

(さて、映像を確認し……)

その映像には数日前の物があった。俺が見た五十嵐のアパートが映っている。予想通りデータは搾取されていたのだ。だが、その時だ。橋爪が持っていたヘルメット状の被り物のところで映像が一瞬止まる。一時停止はほんの一瞬だったのだが、残像のように印象が長く頭を横切る。赤いマーカーが画面上で重なったのだ。何かの映像認識をされたようだ。

(まずいな……)

その先の映像はもっといやな予感を誘うものだった。映像が途切れ、また再び同じアパートを訪れるシーンから再開だ。いや、再開ではない。それは別の人物の映像だって事に気付いてしまった。その視線映像は五十嵐のアパートを見ている。あのアジトという描写が最適な錆付いた階段の手すりに視線が移動している。俺が見た景色に等しい。同じように足跡をトレースした行動だ。そしてまた一瞬の切り替わりの後、俺の映像に戻った。何度か、しかも段々と映像と類似映像との切り替わり間隔が短くなっていく。何度見ても同じく、その別の人物の視線が俺と同じ行動を積み重ねる。

(追っ手か? まさか)

確かに時刻は少しずれている。アパートに来たのはおそらく俺達が居ただいぶ後の時間だ。

(誰かが俺の映像の通りにトレースしている……)

背筋が凍り付いたのはこの後だ。ついにその映像が、社屋に入った。時刻もそんなに差が無い。映像は俺の物とソイツの物とが交互する。

(完全に追われている)

俺は咄嗟に周囲を見た。あの入口から入ってくる。それは俺がそうしたからだ。だったらこの後、視線をシャットアウトしてどこかへ逃げ込めばなんとかなるかもしれない。俺の脳内はアドレナリン放出を感じていた。運動神経に期待しよう。目を閉じた。手探りで狙った第三の扉に向かう。

その時だ、五十嵐の声がした。

 

  8

 「おい、秋田。聞こえるか?」

小さくひそひそとした声の五十嵐だった。

「えっ?」

俺は目を開けてしまったが、周囲に五十嵐は居ない。声だけだ。

「五十嵐か? なんで声が?」

「秋田、いいか、よく聞け。秋田に埋め込まれた耳の方だが、それは集音だけじゃない。逆も出来る仕組みになっていたよ。俺は、瀧本と橋爪と協力してコードを解いた。だからお前の耳に向けて喋ることが出来ている。それで声が届けられるって訳なんだ」

五十嵐の声はやや弾んでいたが、タイミングが悪い。

(こんな時に……)

「そうか、それはそうと、今やばいんだ。追われている」小声で部屋の空間に向かって返事をした。

一瞬サーバールームの景色が目に飛び込んでいたが、慌てて無理矢理に瞼を閉じた。

「えっ、なんだって?」

「追われているんだよ。何者かに……」

その時だ、背後から扉を開ける音が聞こえると、間髪を容れずものすごく速い足音が俺に近づいた。

万事休す。

まもなく俺は背後から肩を掴まれて、強靱な腕力によって背中から床に叩き付けられた。

「うっ……」

頭に鈍痛が走ると目の前が曇り出す。耳の中にはカラオケマイクのハウリングに似たノイズ音が出ている。

(助けて!)声がうまく出せない。

俺は音にならない声を発して、天井に重なる追っ手の顔を見た。

掠れて白色に消えていく視界の中に立つ男の顔をとにかく見ようと、本能が最後の力を出そうとしていた。

 

  9

 掠れる白は雲のようで、いくつものその白い繊維が折り重なると山の端に立ち上る雲海になる。

雲海はやがて陽を浴びて橙色を帯びていくのだ。

その橙は錦鯉のような模様を白と灰の背景に付けると、あたかも画質調整するかのごとく赤みの彩度を上げていった。

血の味か、いやそれを感じない。では血走る目の中の毛細血管を見ているのか。雲海は霞へと変わり、白い雲霞は強い光に晒された。

太陽の陽の偉大な事よ。霞は眩い光源によって晴らされていく。

(だけど、俺の人生はもう汚点を残した。クリアに晴らすことは出来ないのだよな……)

一時混乱した頭も、現実感を出し始めていた視界の中で落ち着きを見せてきていた。

「大丈夫か秋田?」

五十嵐の声だ、すぐ目前から聞こえている。

(助けに来てくれたのか)

俺は緊急搬送のストレッチャーの上で寝かされていた。手足に力は入らない。ベルトで固定されているのが見える。

周りには五十嵐だけではない。瀧本も橋爪もいる。だが、なぜか関口もその娘も居る。皆が俺に注視して俺を囲んでいるのが理解できないままだった。

「五十嵐……」

五十嵐もほかのみんなも様子が変だ。なぜみんな白衣を着ている? そしてなぜここに居るんだ?

「成功ですね。アキタへの映像入力と音声入力による適応テストでは、人との乖離率が0.02%以下でした。映像と音声の入出力の双方向性も問題ありません。では最終確認を、橋爪ドクター」

「了解」

俺はまるで意味が判らないでいた。

「アキタ。大丈夫かアキタ?」

「大丈夫も何も、どういう事だ? 俺はどうなったっていうんだ?」

「ありがとうアキタ。質問してくれるその反応が正常なエビデンスだ。OK。ではアキタには正しい事実を話してあげます。ここでリセットした場合の混乱を生じさせないためにも必要な手順だからね」

(リセット?)

「君はヒューマノイド創世型だ。市場リリースは間もなくさ。最終テストで人としての生活に適応しているかを検証させてもらった。通常の人間の人生経過としてはかなりの希で波瀾万丈な経験パターンにしてはあるがね、試験として高負荷動作モードで体験させた。複雑な状況にもテスト結果としては上々の動きを見せていたからね。すべて設計規格値をクリアしたよ。アルゴリズムに合格点が出たってことさ。だから安心していい。これまで体験した世界はベータ型組織を通して投影したバーチャルリアリティー映像さ。君は網膜の内側で体感していたに過ぎない。今は身体ブロックの方はまだ休止中でね。動かせない。だけど約三ヶ月後には動作検証を終えていよいよ始動する。そうすれば五十嵐君のような友達も出来るだろう。人の世界を楽しんでほしい。だけど周囲の人間は君を特殊だとは感じないだろうね。完全体だと言って良い」

(つまり?)

「つまり、君は人工知能のYOTSUBAを搭載したヒューマノイドだ。だけどほとんど人間だよ、新しい人間だ。YOTSUBAには人類を重んじるセーフティープログラムを強化しているからね。きっと人に役に立てる。アキタとしての経歴は仮想の物だけど、記憶は深層レベルまでクリアされてから再起動するからあまり気に留めることはないよ。休止期間に深層残記憶は整理されて経歴レポートとしては保管されるけど、何かの発動をする事は無い。以上が報告、正しい事実だ、アキタ。OK、ありがとう。それではまた再起動後に会いましょう」

俺はあの瞬間を思い出していた。

耳の中にはカラオケマイクのハウリングに似たノイズ音が出ている。

(助けて!)声がうまく出せない。

俺は音にならない声を発して、天井に重なる追っ手の顔を見た。

掠れる視界の中に立つ男の顔は……。

これは悪夢だ!

(おっ、俺じゃないか……)

ノイズ混じりの音声には、目の前に立っている俺の声が入ってくる。

「お前を……止めてやる!」

(お前って?)

俺がお前に? 

俺は誰に止められるって?

お前は何を止めるんだ?

止めるのか? 止めてくれたのか?

人間の俺を止めたのか? 

それとも、YOTSUBAの俺を止めたのか?

(どっちの俺が、どちらの俺を止めたんだ……)

その後、俺には雲海が見えた。雲は流れて次第に黒に変わっていく。

意識が薄れていく中、俺がただ感じていた事。

それは……。

それは、ただ漠然とだ。

「出来るだけ長く眠りたい」

そんな疲労感で魂を溶かされるような感情だったと思う。

 

《了》

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