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オンエア
「あの、すいません」
「ん?」
「ちょっと伺いますが、その……」
「そうだと思った」
「えっ?」
「あたしに声を掛けると思ったの。声を掛けたんでしょ? そうでしょ?」
「ええ、まあ。そりゃあ、ここに見えるのはあなただけだったから」
その人は見た目よりも低い大人びた声をしていた。でも、僕の耳には新鮮でハッキリと聞こえた。好きな曲がオンエアで放送された時みたいに。
「どうしたの? 何か聞きたいんでしょ?」
「あ、あの、聞くことになったのは初めてだったから」
「それで?」
「ここの季節と日差しと……」
「そんなの、夏に決まっているでしょ。分からない? それに日差しは強い。しばらくずっとこんな感じ。でも聞きたい事って、もっと詳しくここに来るまではどうだったかって、そんなとこ、なんじゃない?」
「そう。その通りですよ、もっと詳しく……」
「なに? 何かあたしの顔についている?」
「いや、まさか女性だなんて思ってなかったから」
「女性では不満?」
「いえいえ、そんなことない! 不満な事なんかないよ。ただ、意外だったから」
「あらそう? 男性ばかりじゃないでしょう、オーナーは」
「まあ、そうでしょうけど。でも、ほかの人をあんまり知らないから」
「あんまり? あたしは初めてだけどね」
「あっ、すいません。嘘つきました。僕も初めてです」
その人は目が愛らしく、口を少し開いて笑って見せた。
「それで?」
「教えて欲しいのは、これまでのルート情報と掛かった時間とか、その正確なやつ。それと、路面状況とか。そういうの分かります?」
「ええ、もちろん。正確に知りたいんでしょ?」
「うん、そうなんです。可能?」
「ちょっと時間をくれる? 調べてくるから」
「ああ、はい。でも、ちょっと待って。こちらに聞きたい事はない?」
「あるかどうかも確認してくる。また会いましょう。ここで」
「そうですね。また来ます。いや、僕はここで待ちます」
「待つ?」
「はい、待っています」
「じゃあ、なるべく早くって事ね。急ぐわ。じゃあね」
その人はそこを離れていった。
眼前に広がるのは海だった。場所は把握している。だけど、その景色はこうして実際に来てみない分からないものだな。青い空に青い海。そんなアイドルソングのような景色が実際にあるとは考えたこともなかったけど、今日のこれかもしれない。
何の種類か知らないが、二羽の海鳥が空に泳いでいる。円弧を描きながら風と波乗りしているみたいだ。
海の街。ここで長く居るとは思わなかった。そういう事も全部、何しろ自分は初めてだから。
「だいぶ待った?」
「いや、大丈夫です。そんなには待ってないです」
「ほんと? 嘘でしょ。あたしは調べるのに凄く時間が掛かっちゃった。まさか、まだ待っているとも思わなかったけど」
「でも、待っているって言ったし」
その人は笑った。呆れ顔だったけど、少し申し訳なさそうな表情もしている。
「どうしました?」
「ああ、だって。ごめんなさい。あたし、こういうの初めてだったから。どうやって調べれば良いか、その不慣れで。だから時間が掛かってごめんなさい」
そう言うとその人はノートのような物を手渡してくれた。
「これが情報?」
「そう」
「ありがとうございます。良かった。こうやって交流できて良かった」
自分の持っていた情報を僕もその人に渡す。
「えっ、ここが次の場所? それならあたしも寄った場所よ。丘みたいな公園。この海を見下ろすことが出来るわよ。多分、綺麗にね」
「多分?」
「だって、そこはあたしじゃなかったから」
「へえ」僕はその時、理解できないままに言葉を漏らす。
「『へえ』じゃないわよ。あなただってこれが終わったらしばらく出番はないでしょう?」
「そ、そうなんですか……」
「いやだ、知らないの? 本当に初めてなんだ」
「そ、そうですよ。そうとは知らなかったな」
その人は黙っている。ちょっと笑顔にも見えたけど、笑ったのか真顔なのか見分けにくい顔つきでこっちを見た。
「もしかして、それじゃ、この景色は見納め?」
そう聞いたら、その人は「そうね」と答えた。
「でも……」
「『でも』じゃ、ないの」と僕の声を真似た。
「それじゃ」
その人は行こうとするので、とっさに口から出た。
「ねえ、まだ、何か知りたい事はないですか?」
背中を向きかけたその人は、一瞬立ち止まり、ゆっくりと首を上げた。向こう側の空を見ている。向こうに体の全部を向けたまま声を出した。「それじゃあ……」
「それじゃあ?」
「天気の予測は?」
「えっ? そんなこと知らないのですか?」
「参考までに調べて教えてくれないか、って言ってるの」
「ああ、わかりました。それじゃあ、調べてくるから、待っていてくれますか?」
「少しならね」そう言うと、その人は回れ右してこちらを向いた。
調べることなんてそんなに簡単じゃなかった。
これがあの人が言っていたことか。ちょっと焦りながら情報を探した。時間はものすごく早く経過する。外の景色が、この土地柄なのかのんびりと流れる空気が皮肉に感じられる。風の音と潮の音、それから鳥の鳴き声がなんとなく耳には入っていた。
(あった。これが予想の天気)
走って向かう。自分の足が遅いのだと生まれて初めて気付かされ惨めな気持ちになる。それでも、足と気持ちはあの人の方へ駆けていた。
「遅い! もう出かけるところ。ギリギリよ」
「ギリギリセーフ?」
「ギリギリアウト!」
「え? でも、これ。天気情報……」
その人は風に前髪を動かされていた。茶色い目が湿っているように見える。
「どうして?」
「うそ。受け取るわ。ありがとう。もうあたし、行く時間だから」
「そうですか」
「あの丘には行くの?」
「その予定だと」
「でもあなたも見れないか……」
「そういう仕組みは、ちょっとその、知らなかったから。あなたがそう言うなら、そうかもしれないです」
「……寂しい?」
「ええ。とても。せっかく出会えたのに。なんなら、丘の景色も見てみたいです。よかったら一緒に」
「いつか、そういう機会があるといいわね」
「ないですか?」
「確率的に無理ね」
「……」
分からなかった。この海の綺麗な景色の前で、経験したことのない気持ちが波風に寄って僕の胸の所まで運ばれてきている。
「IDコードだけは覚えておいてくれる?」
「はい。もちろん。僕のコードは……」
「記憶したわ。あなたの車種も。色も年式も。シリアル番号も、いろいろ全部」
ウィンクをして笑おうとしているけど、瞼を手で拭った。
「ねえ、もしあなたに力があるなら……」
「あるなら、何です? 言ってください」
「いつかあたしは、またあなたに会いたいわ。だから」
「僕も! だから?」
「出来るだけ海に出掛けるように勧めてね。どう?」
「はい。そうします。『出掛けるなら海の方に行きましょう!』どうです?」
「良い発音ね」
その人は口角を斜め上に上げて、少し無理矢理な笑顔をした。
「それじゃあ、もう行くみたいだから」
「僕は、また海に来ます! 来させますよ、運転手に仕向けます」
「優等生ね。ありがとう……」
その人が手を差し出した。ゆっくりと手を差し出した手を握ると暖かい。
「きっとまた会いましょう」
僕はたまらず、手を引いて体を引き寄せた。そのまま左手を肩に運ぶ。抱きしめて離さないようにしようと思った。
【通信パケットは終了です】
乾いた文字がその人の位置に形作られる。薄れていくその人の残像は、僕に何か言ったように見える。
自分の姿の目の前にも【通信パケットは終了です】の文字が浮き出てきた。
僕は車の中の電子回路に吸い込まれ、海の景色が閉じていく。
次に僕がほかの車と通信コマンドとして発信されるときには、この手に持ったIDコードを最初に確認する。そう決めていた。
了